歴史 其の八ー2
「松本清張」 初代との
生涯の交流 中国料理 耕治
小倉には松本清張ゆかりの店などが点在する。昭和風情の残る鳥町食道街の中国料理耕治も其の一つ。初代の平野耕治は清張と親交が深かった。「作家になりたかった父は、芥川賞受賞後の清張先生に、いつも原稿を見ていただいていました。『耕治は俺の弟子だからね』といろいろな方に話されていたそうです。」そう話すのは2代目の平野桂之介社長。初代はもともと東京・浅草にあったそばの有名店「萬盛庵」の末っ子だった。川端康成、沢村貞子など数々の文豪や著名人の本にも登場した萬盛庵は、東京大空襲で消失し、耕治は兄嫁を頼って小倉へ来る。現在の場所で、独自の東京風醤油ラーメン店を始めたものの、とんこつが主流の小倉ではなかなか受け入れられなかった。同時に作家修行にも励んでいた耕治を、清張は親身になって指導したという。結局、小説家の道はあきらめた耕治だが、清張との交流は生涯続いた。耕治は小さな季刊誌を出していて、清張はここにも無償で寄稿。小説同様、何度も真剣に校正を重ねた。平成4年(1992)、突然、清張本人から耕治に「会いたい」と電話が入り、東京・赤坂の料亭に招待されて食事を共にした。「清張先生が倒れて入院されたのは、それから1週間後のことでした」(平野さん) 清張が脳出血で倒れて入院したのは4月20日。手術が成功し、療養していたものの、7月下旬に病状が急変。8月4日に他界した。学歴も友人もなく、小倉時代を必死で生き抜いた清張は、ラーメン作りや小説に孤軍奮闘する耕治の姿に、共感するところがあったのかもしれない。弟子を取ることもなく、会いたいという有名人がいてもなかなか応じなかったといわれる清張。だが、最後に小倉から平野耕治を呼び寄せたのだった。
文:時田慎也/サンデー毎日(サンデー毎日 4月19日増大号、毎日新聞出版)とことん1日旅〕街と文化人 あのひとのふるさと(03) 松本清張 作家 小倉(福岡県北九州市) 218頁
※写真:上から
松本清張先生直筆の「達磨図」。肌の色はなんと醤油で着色されたもの/提灯記事の原稿と校正紙/清張先生との食事会