歴史 其の四
書物の中の萬盛庵
沢村貞子著『私の浅草「萬盛庵物語」』や矢田挿雲著『江戸から東京へ』、永忠順著『世間よもやま咄・おじいさんの日和下駄』、今和次郎『新版 大東京案内』、森茉莉『父の帽子「幼い日々」』、川端康成『浅草紅団』など、様々な書物の中に『萬盛庵』が登場していることからも、多くの文化人たちからも愛されてきたことが伺えます。私の浅草(萬盛庵物語)
沢村貞子 著
むかし、浅草観音音堂の裏手一帯は、奥山と呼ばれていた。私が子供のころ、そこに萬盛庵という大きなそば屋さんがあった。大通りから観音さまへ抜ける路の角にある、船坂塀にそった冠木門から、きれいな庭が見えた。三百坪はたっぷりあると思われる敷地に母屋をとりまいて、いくつかのしゃれた離れが建っていた。その、部屋から部屋をつなぐ小道沿いのじゃり浜の、ところどころに、大きなつくばいがあって、いつも、冷たいきれいな水が溢れていた。格好のいい松や紅葉、つげ、慎のあいだには、梅、桃、椿、牡丹から藤まで、四季おりおりの花が咲き乱れ、毎日のように脚絆姿の庭師が入っていたように思う。店に働く人たちの、キリリとした身仕舞いのよさにも、老舗の伝統が感じられた。食べもの屋らしく、白粉気のない女中さんの、小ぶりの銀杏返し、前かけにかいがいしいたすき姿、とりわけ、わけへだてない、行儀のいい客扱いは評判であった。「なんてったって萬盛庵さ、主人のお仕込みが違わぁな」浅草の人たちは、それをわがことのように誇りにしていた。「江戸から東京へ」より
矢田挿雲著
本堂裏、蕎麦屋萬盛庵内にある人丸堂の本尊は、頓阿の作と伝えられ、往古の風流人がここに会して、人丸忌の歌や俳諧師西山某が堂側に住んで、堂守のような暮らしをしたのちは、しばらく風流人と縁が絶え、幾度か代がかわって、田所長十郎なる文身師(ほりものし)の住居となった。しかし文身と敷島の道とは、全然没交渉なので、長十郎は人丸が何やらさらに知らず、堂の建石を掘り起こして、自分の庭の敷石または沢庵石にし、その後象潟町へ転居のさいは、堂だけのこし、目星い石をみな持ち去った。宗因、芭蕉、其角の句を刻した碑が、沓脱石になるという有様で、斯道の宗匠連、涙にむせんでおそれ多かったが、田沢の後が万盛庵となるに及び、人丸堂も小綺麗に修復され、世継の碑は、江崎礼二その他数十名の有志の手で、五百羅漢の付近に建設された。「世間よもやま咄 おじいさんの
日和下駄」 永忠順 著
観音裏の「おく山萬盛庵」といえば浅草ではもちろん東京でも、知らない人はいないくらいの大店で私なども、子供の頃から何回か連れて行ってもらったことがあるが、おそろしく広い庭があってその庭のそこかしこにきれいな小座敷があり、女中さんが庭の敷石を伝わるようにお誂物を運んできてくれるという風雅な蕎麦屋さんであった。※写真上から
私の浅草(萬盛庵物語) 沢村貞子 著/矢田挿雲 「江戸から東京へ」/森茉莉 「父の帽子」/川端康成 「浅草紅団」/今和次郎 「新版 大東京案内」