歴史 其の弐
日本で最も歴史のある蕎麦屋
「おく山萬盛庵」
その系譜を小倉で受け継ぐ
「耕治」
「中国料理 耕治」の歴史は、東京・浅草の「おく山萬盛庵」という江戸中期に創業した、日本で最も歴史のある蕎麦屋に端を発します。〈門に宝井其角※の筆になる萬盛庵の扁額を掲げ〉(東京出版社『蕎麦辞典』より引用)。加えて同書には〈女優望月優子は「私たちは川端(康成)先生につれられて、お座敷のある坐って食べられる、その萬盛庵で、年越しそばと言うものを食べる風習を知った」と述懐した〉とあるように、今日の私たちが知る蕎麦の楽しみ方を発信していたことなどが伺えます。年越し蕎麦以外にも、茶蕎麦や海苔を乗せた蕎麦なども発祥はこの店であると伝えられています。戦火により現存しない店ですが、全国各地に「萬盛庵」を屋号に掲げる蕎麦屋が多いのは、この「おく山萬盛庵」に対する憧れや敬意の念からと言われています。沢村貞子著『私の浅草』や矢田挿雲著「江戸から東京へ」、永忠順著『世間よもやま咄・おじいさんの日和下駄』など、様々な書物の中に『萬盛庵』が登場していることからも、文士に愛される店だった事実が読み取れます。
「中国料理 耕治」の創始者・平野耕治は、この店の店主の末っ子として生まれ、鳥町(現在の魚町一丁目。今は「鳥町食道街」としてその名称を残す)に店を創業しました。当時の屋号だった『東京風支那そば 耕治』には、この小倉の地で醤油ラーメンを提供し、根付かせていこうとする覚悟、そして「萬盛庵」への強い思いが込められておりました。
※宝井其角
「年の瀬や 水の流れと人の身は 明日待たるる その宝船」
両国橋十二月歌舞伎恒例の演目『忠臣蔵』の芝居の中で、討入りの前夜に詠まれる句。煤払いの笹売りに変装する大高源吾が、俳諧の師・宝井其角に雪の両国橋で出会い「年の瀬や…」と詠みかけられるや「明日…」と対句して去る名場面。この句で宝井其角が吉良の討ち入りを知ることとなります。
「中国料理 耕治」の創始者・平野耕治は、この店の店主の末っ子として生まれ、鳥町(現在の魚町一丁目。今は「鳥町食道街」としてその名称を残す)に店を創業しました。当時の屋号だった『東京風支那そば 耕治』には、この小倉の地で醤油ラーメンを提供し、根付かせていこうとする覚悟、そして「萬盛庵」への強い思いが込められておりました。
※宝井其角
「年の瀬や 水の流れと人の身は 明日待たるる その宝船」
両国橋十二月歌舞伎恒例の演目『忠臣蔵』の芝居の中で、討入りの前夜に詠まれる句。煤払いの笹売りに変装する大高源吾が、俳諧の師・宝井其角に雪の両国橋で出会い「年の瀬や…」と詠みかけられるや「明日…」と対句して去る名場面。この句で宝井其角が吉良の討ち入りを知ることとなります。