歴史 其の伍

蕎麦辞典「板看板」

旧慣を伝えているそば屋では、店の入口に近い出格子に、榎の一枚板、木彫りの看板をかけている。これにも二た通りあり、一は横長の板にしたもの、他の一つは、榎の大木を胴切りにしたもの。いずれにしても、木目の美しさを見せている。(近ごろでは一般に数すくなくなったが、東京でも浅草、新吉原方面にはまだ残っている。) 「生蕎麦」の文字の下書きは、しかるべき書家に依頼したのもある。大正初期まで隆盛を極めた浅草萬盛庵のそれは、宝井其角の筆蹟であった。彫りの凹みには、店の好みにより、緑青色で染め出したものもあり、逆に文字を凸面にして黒漆で浮き出して塗ったものである。要するに、看板は店の歴史を語るものであり、一城の標識でもある。したがって下にもおかぬ扱いをする。終業と同時に、店の責任者が注意して、奥へしまい込む。「かんばんの時刻」「かんばんになった」という言葉は、これから出たもので、世間では、おでん屋や小料理屋などが、この語を利用を借用して、夜おそくやって来た客に「もう、かんばんになりました」というが、いまだかつて、それらの店が看板を蔵い込むのを見たためしはない。ただし暖簾もかんばんと言えないことはないが、いささか見当はずれである。

蕎麦辞典「萬盛庵」

そば屋の屋号としては、萬盛庵と長寿庵と言う店名が最も古いと言われるくらいで、全国に同名の店がたくさんある。今日「山形そばを食う会」を主催している萬盛庵(山形旅籠町)は、世話人に結城哀草果氏その他知名の士を集めて盛大に続けている。大正末期まで鳴らした浅草奥山(観音堂裏)の萬盛庵は東京名物の一つであった。趣味人渡辺一雄氏は、「三社さまの裏手に在り。門に宝井其角の筆になる萬盛庵の扁額を掲げ、離れ家がいくつもある庭に人丸神社を祀り、諸事風流好みの店であった。ここの天婦羅そばは看板になっていた」と述べている。かつての萬盛庵は、今はそれを偲ぶばかりで、環境一変し、まぼろしとなって、われわれの脳裡に迫るばかりである。日本調理師研修所長安東鼎氏によれば「小高い丘の森の中、瀟洒たる小店ながら、庭に泉水、池などがあり、世辞のよい女将、美人でインテリー評判娘秀子さんが一層の呼び物となって繁昌し、いわゆる文人墨客の杖を曳く小集会には格好の地であった」と。これは昭和四、五年ごろの風景であると思われる。金竜館の「浅草オペラ」華やかなりしころも過ぎて、カジノ・フォーリ(水族館)全盛時代がやって来た。それを如実に描いたのもが、川端康成氏の「浅草紅団」である。当時の踊りを川端氏は小説「寝顔」に片鱗を伝えている。往時を回想して女優望月優子は「私たちは川端先生につれられて、お座敷のある坐って食べられる、その萬盛庵で、年越しそばと言うものを食べる風習を知った。」と述懐した。当時の踊り子は十六歳から十八歳ぐらいまでの娘たちだったが、小説「寝顔」には「浅草の水族館の踊り子たちと百八つの鐘を聞きながら、萬盛庵で年越しそばを食べるのが、ここ幾年かの私の大晦日の習いでありました。萬盛庵と言うのは、しるこの松邑と共に、もとは奥山の名代であったが、芸者町のなかへ越していったのであります。鐘の音とそばだけのことながら、ゆく年と新しい年々の堺の時間を古風なしきたりで染めるのでありますから、少女には殊更印象が深いと見えます」。 ※宝井其角 「年の瀬や 水の流れと人の身は 明日待たるる その宝船」 江戸名所図会・両国橋十二月歌舞伎恒例の演目『忠臣蔵』の芝居の中で、討入りの前夜に詠まれる句。煤払いの笹売りに変装する大高源吾が、俳諧の師・宝井其角に雪の両国橋で出会い「年の瀬や・・・」と詠みかけられるや「明日・・・」と対句して去る名場面。この大高源吾の付句によって宝井其角は吉良邸討ち入りを知ることになります。 《宝井其角》 医師の息子で松尾芭蕉の弟子となり、彼の十大弟子(蕉門の十哲)の筆頭とされました。

蕎麦辞典「屋号」

別項に記した「道光庵」の繁昌にあやかろうと、江戸のそば屋には、「庵」をつけたものが多かったが、それらの中では「萬盛庵」が一番古い屋号だと伝えられる。江戸時代にも、深川あぶみ、坊主そば、らんめん、猖々庵、薪屋、瓢箪屋などという変った屋号があったが、現在でも風変わりな屋号の店がある。式部そば、梓、福屋、長浦、増音、家族亭、御座候、大三、瓢亭、初花、水車そば、青和園、うるしや、鶴喜、松葉、晦庵、嘉司庵、一休庵、暫、羽根屋、鉄州庵、油屋、福豆屋、まる賀、三朝庵その他、変わった屋号はいろいろある。なお、東京には「尾張屋」という屋号を掲げ、うどん専門と、そば、うどん、両方を扱っている店とがある。主流は尾張の 国から江戸へ移って来たものであるが、東京浅草雷門の尾張屋のように別派もある。これは江戸の末期、日本橋に尾張屋を名乗る侠客がいたが、その流れを汲むものと言われている。