そば屋の屋号としては、萬盛庵と長寿庵と言う店名が最も古いと言われるくらいで、全国に同名の店がたくさんある。今日「山形そばを食う会」を主催している萬盛庵(山形旅籠町)は、世話人に結城哀草果氏その他知名の士を集めて盛大に続けている。大正末期まで鳴らした浅草奥山(観音堂裏)の萬盛庵は東京名物の一つであった。趣味人渡辺一雄氏は、「三社さまの裏手に在り。門に宝井其角の筆になる萬盛庵の扁額を掲げ、離れ家がいくつもある庭に人丸神社を祀り、諸事風流好みの店であった。ここの天婦羅そばは看板になっていた」と述べている。かつての萬盛庵は、今はそれを偲ぶばかりで、環境一変し、まぼろしとなって、われわれの脳裡に迫るばかりである。日本調理師研修所長安東鼎氏によれば「小高い丘の森の中、瀟洒たる小店ながら、庭に泉水、池などがあり、世辞のよい女将、美人でインテリー評判娘秀子さんが一層の呼び物となって繁昌し、いわゆる文人墨客の杖を曳く小集会には格好の地であった」と。これは昭和四、五年ごろの風景であると思われる。金竜館の「浅草オペラ」華やかなりしころも過ぎて、カジノ・フォーリ(水族館)全盛時代がやって来た。それを如実に描いたのもが、川端康成氏の「浅草紅団」である。当時の踊りを川端氏は小説「寝顔」に片鱗を伝えている。往時を回想して女優望月優子は「私たちは川端先生につれられて、お座敷のある坐って食べられる、その萬盛庵で、年越しそばと言うものを食べる風習を知った。」と述懐した。当時の踊り子は十六歳から十八歳ぐらいまでの娘たちだったが、小説「寝顔」には「浅草の水族館の踊り子たちと百八つの鐘を聞きながら、萬盛庵で年越しそばを食べるのが、ここ幾年かの私の大晦日の習いでありました。萬盛庵と言うのは、しるこの松邑と共に、もとは奥山の名代であったが、芸者町のなかへ越していったのであります。鐘の音とそばだけのことながら、ゆく年と新しい年々の堺の時間を古風なしきたりで染めるのでありますから、少女には殊更印象が深いと見えます」。 ※宝井其角 「年の瀬や 水の流れと人の身は 明日待たるる その宝船」 江戸名所図会・両国橋十二月歌舞伎恒例の演目『忠臣蔵』の芝居の中で、討入りの前夜に詠まれる句。煤払いの笹売りに変装する大高源吾が、俳諧の師・宝井其角に雪の両国橋で出会い「年の瀬や・・・」と詠みかけられるや「明日・・・」と対句して去る名場面。この大高源吾の付句によって宝井其角は吉良邸討ち入りを知ることになります。 《宝井其角》 医師の息子で松尾芭蕉の弟子となり、彼の十大弟子(蕉門の十哲)の筆頭とされました。