歴史 其の参ー2

萬盛庵の風景

植原路郎著『蕎麦辞典』に「大正末期まで鳴らした浅草(観音堂裏)の萬盛庵は東京名物の一つであった。趣味人渡辺一雄氏は、〈三社様の裏手に在り、門に宝井其角の筆になる萬盛庵の扁額を掲げ、離れがいくつもある庭に人丸神社を祀り、諸事風流好みの店であった。ここの天婦羅そばは看板であった|〉天婦羅そばではなく、看板はざるそばである。祖父は何が旨いかと問われたら、ざるそばと答えよ、と女中達を躾けた。

お酉さま

もの日の中でもお酉さま立混みはきわだって忙しく、二、三日前から何百という天婦羅を仕込んで、祖父の隠居所の前の廊下に高々と積み上げる。その日が晴天なら、瞬く間に売り切れるが、雨でも降ると玉やになる。祖父は日に何度となく縁側から空模様を眺め、「怪しいな大丈夫だろう・・・いや、大丈夫だ」と呟く。母に萬盛庵は、いかなる店だったかと訊くと、「まあァおそば屋では日本一だろ」と、こともなげに言う。

店構え

去年、エッセイストクラブ賞を受賞なさった沢村貞子さんの『私の浅草』の中に、萬盛庵物語という一編がある。それに店構えが次の如く描かれている「むかし、浅草の観音堂の裏手一帯は、奥山と呼ばれていた。私が子供のころ、そこに萬盛庵という大きなそば屋さんがあった。 大通りから観音さまへ抜ける路の角にある、船板塀に添った冠木門から、きれいな庭が見えた。三百坪はたっぷりあると思われる敷地に母屋をとりまいて、いくつかのしゃれた離れが建っていた。その部屋から部屋をつなぐ小道添のじゃり浜の、ところどころに、大きなつくばいがあって、いつもきれいな水が溢れていた。」

三社祭

此の庭には絶えず二、三人の脚絆姿の庭師がいて、年中殆んど手が切れた時がない程、日々庭木の手入れがされる。三社祭の頃になると、離れの一つを青竹で囲み、店に伝わる御輿や四神剣を飾る。其処に町内の頭連が集まって祭の相談、話が熱してくると頭の中には、つくばいの処で諸肌ぬいで、倶利伽羅もんもんの躰を拭く。「とにかく威勢のいい風景だったよ・・・」と母は言う。

鍋焼きうどん

むかし、鍋焼きうどんは屋台で売られていた。薄切りの蒲鉾、油揚、せいぜい気張って浅蜊の天ぷら、などが入っていた。或る時、滅多に店へ寄りつかぬ勝三郎の六番目の倅六郎がふと舞戻り、寄鍋のような、上等な鍋焼うどんをつくったらと発案、中へ入れる種は三橋の蒲鉾屋で別揃えさせた、小ぶりの半ぺん、結び白瀧、椎茸、庄内麩、合鴨、湯葉、筍、卵焼、蒲鉾、三ッ葉、ほうれん草。さてその中に、さいまきか芝海老の天婦羅でも入れたら、と言うと、祖父が〈そんなもの、おめえ品が悪い〉と断固として反対した。六郎は如何しても揚物一品加えたい。とどのつまり、先代の蓮雀町の薮の当主と、跡取りの騰太郎が宥めすかして天婦羅を入れた。この鍋焼きを出したら大当たり、売れに売れた。これを忽ち三越の食堂部が真似をして、それから瞬く間に全国のそばうどん屋に鍋焼うどんが拡がっていった。六代目菊五郎は此の鍋焼が気に入って、楽屋に常時、二、三十組の萬盛庵の印入の土鍋が用意され、ひんぴんと男衆が材料一式を取りに来た。

文人墨客

浅草オペラ、カジノ、フォーリ全盛時代がやって来た。『蕎麦辞典』に、往時を回想して女優望月優子は、「私たちは、川端先生につれられて、お座敷のある座って食べられる、その萬盛庵で年越そばを食べる風習を知った。」と述懐した。 同時に川端先生の小説『寝顔』にも萬盛庵は出て来る。〈 浅草の鳩も寂しく思ふらむ日ごろ見慣れしわれを見ぬため 〉と詠んだ吉井勇先生は、当時しきりに浅草へ出没した。大勢の取まきの方と萬盛庵へ繰り込んで来る。そば屋は、文人あるいは有名人が来ても、別段いちいち主人が挨拶に出向かない。が、おなじみ吉井先生だけは母が挨拶に出向くことがあった。お仕事で京都にいらっしゃると、〈萬盛庵のそばがき食いたし〉と葉書がくる。店に先生の色紙、短冊あまたあったがそれもすべて灰燼に帰した。

酉の市(羽子板市)

萬盛庵には門が二つあった。富士横丁通りに面した方を表門、三社様裏に面した方を三社門と言った。此の門の三、四間先に九代目団十郎の〈暫〉の銅像があった。その日、必ず亡き九代目のお内儀さん、まだ幼い頃のオカッパ髪の翠扇さん、猿翁のお母さんで踊の名手といった方々と御一緒で萬盛庵でそばを食べる。又、この日、欠かさず見える方に、先代吉右衛門御夫婦、ごった返すたて混みに、仕方なく祖父の隠居所にお通しすることもあったと言う。同時に猿若町から、小道具藤浪さん御一行が賑やかに繰り込んで来る・・・。「しかし、昔の人は人使いが荒かったねぇー」と、おふくろが述懐する。店の者、朝の八時から午前一時まで、ぶっ通しで働かされた。春のおだやかな昼下がり、突出しの縁側で女中がひとり気持ちよさそうにうたた寝をしている。そのたすきがけ、黒繻子の襟といわず、唐桟柄の着物といわず、髪の毛から辺り一面、桜吹雪が降りかかり、一幅の絵のようだった、と言う。「かつての萬盛庵は、今はそれを偲ぶばかりで、環境一変し、まぼろしとなって、われわれの脳裡に迫るばかりである」と、ものの本にもあるが、私にとっても遂にわが萬盛庵は、幻となって終わるのか・・・。