耕治の歴史

  1. 提灯公演

    提灯公演その「提灯記事」に寄稿して頂いていた著名人の方々のご協力を得て始めた「提灯公演」。何んらかの形で少しでも町を明るく、楽しくさせたいという思いで活動いたしておりました。この公演の産みの親は、「永六輔氏」でした。永氏の絶大なご助力の賜で、「提灯公演」は昭和62年10月から25回開催されました…

  2. 蕎麦屋「萬盛庵」から「耕治」を 創業するまでの軌跡

    幼少期を過ごした萬盛庵時代から耕治を創業までの経緯を、提灯記事第18号に掲載された、ナレーター・ときどき朗読家の芳賀喜子さんとの対談でご紹介いたします。萬盛庵って何ですか芳賀 耕治さんは東京では有名なおそば屋の息子さんと伺ってはいたんですが、何故中…

  3. 蕎麦辞典「屋号」

    別項に記した「道光庵」の繁昌にあやかろうと、江戸のそば屋には、「庵」をつけたものが多かったが、それらの中では「萬盛庵」が一番古い屋号だと伝えられる。江戸時代にも、深川あぶみ、坊主そば、らんめん、猖々庵、薪屋、瓢箪屋などという変った屋号があったが、現在でも風変わりな屋号の店がある。式部そば、梓、福屋、…

  4. 蕎麦辞典「萬盛庵」

    そば屋の屋号としては、萬盛庵と長寿庵と言う店名が最も古いと言われるくらいで、全国に同名の店がたくさんある。今日「山形そばを食う会」を主催している萬盛庵(山形旅籠町)は、世話人に結城哀草果氏その他知名の士を集めて盛大に続けている。大正末期まで鳴らした浅草奥山(観音堂裏)の萬盛庵は東京名物の一つであった…

  5. 蕎麦辞典「板看板」

    旧慣を伝えているそば屋では、店の入口に近い出格子に、榎の一枚板、木彫りの看板をかけている。これにも二た通りあり、一は横長の板にしたもの、他の一つは、榎の大木を胴切りにしたもの。いずれにしても、木目の美しさを見せている。(近ごろでは一般に数すくなくなったが、東京でも浅草、新吉原方面にはまだ残っている。…

  6. 「江戸から東京へ」より 矢田挿雲著

    本堂裏、蕎麦屋萬盛庵内にある人丸堂の本尊は、頓阿の作と伝えられ、往古の風流人がここに会して、人丸忌の歌や俳諧師西山某が堂側に住んで、堂守のような暮らしをしたのちは、しばらく風流人と縁が絶え、幾度か代がかわって、田所長十郎なる文身師(ほりものし)の住居となった。しかし文身と敷島の道とは、全然没交渉なの…

  7. 「世間よもやま咄 おじいさんの日和下駄」 永忠順 著

    観音裏の「おく山萬盛庵」といえば浅草ではもちろん東京でも、知らない人はいないくらいの大店で私なども、子供の頃から何回か連れて行ってもらったことがあるが、おそろしく広い庭があってその庭のそこかしこにきれいな小座敷があり、女中さんが庭の敷石を伝わるようにお誂物を運んできてくれるという風雅な蕎麦屋さんであ…

  8. 私の浅草(萬盛庵物語) 沢村貞子 著

    むかし、浅草観音音堂の裏手一帯は、奥山と呼ばれていた。私が子供のころ、そこに萬盛庵という大きなそば屋さんがあった。大通りから観音さまへ抜ける路の角にある、船坂塀にそった冠木門から、きれいな庭が見えた。三百坪はたっぷりあると思われる敷地に母屋をとりまいて、いくつかのしゃれた離れが建っていた。その、部屋…

  9. 書物の中の萬盛庵

    沢村貞子著『私の浅草「萬盛庵物語」』や矢田挿雲著『江戸から東京へ』、永忠順著『世間よもやま咄・おじいさんの日和下駄』、今和次郎『新版 大東京案内』、森茉莉『父の帽子「幼い日々」』、川端康成『浅草紅団』など、様々な書物の中に『萬盛庵』が登場していることからも、多くの文化人たちからも愛されてきたことが伺…

  10. 酉の市(羽子板市)

    萬盛庵には門が二つあった。富士横丁通りに面した方を表門、三社様裏に面した方を三社門と言った。此の門の三、四間先に九代目団十郎の〈暫〉の銅像があった。その日、必ず亡き九代目のお内儀さん、まだ朝ない頃のオカッパ髪の翠扇さん、猿翁のお母さんで踊の名手といった方々と御一緒で萬盛庵でそばを食べる。又、この日、…

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