蕎麦屋「萬盛庵」から「耕治」を 創業するまでの軌跡

幼少期を過ごした萬盛庵時代から耕治を創業までの経緯を、提灯記事第18号に掲載された、ナレーター・ときどき朗読家の芳賀喜子さんとの対談でご紹介いたします。


萬盛庵って何ですか
芳賀 耕治さんは東京では有名なおそば屋の息子さんと伺ってはいたんですが、何故中国料理をやっているのですか?
平野 これが不思議でねぇ(笑)長男は戦死、上の兄がグリルボントンという洋食、三番目が六本木で鮨長という鮨屋、僕が中国料理…
芳賀 誰ひとりおそば屋を継がない(笑)
平野 三月十日の空襲で、浅草馬道の萬盛庵は焼け、そのまま消滅したんですが、商売はそれ以前から企業整備ということで、その二年ほど前から休止状態でした。おしまい頃は割り当ての芋を蒸して売っていましたよ。

芳賀 その頃、耕治さんはお幾つでした?
平野 小学校の五・六年の頃だと思います。おふくろと市ヶ谷本村町、前が堀端、うしろが大本営といった所で…
芳賀 おそば屋復活は考えなかったんですか?
平野 あ、それそれ。おふくろが常々口癖のように、おそば屋なんてやるもんじゃないよ、手間がかかって儲けの薄い商売だから。と云っていましたね。
芳賀 アハハハハ
平野 が、あの当時、店を出すなんて考えるどころじゃなかったですよ。行く先々焼け出され、最後には昔の出入商人の家に転がり込むほどで。
芳賀 沢村貞子さんの萬盛庵物語でも拝読しましたが、お母さま女手一つで五人の男の子を育てる、それだけでも大変ですネ。
平野 だから今考えますと、母がそば屋なんてやるもんじゃない。というのも、何もそば屋に限ったことではなく、食い物商売というものに、つくづくくたびれ果てていたんじゃないかと思います(笑)
芳賀 それで、東大出のご長男に希望をかけた?
平野 そりゃどうですかネ。戦死しちゃいましたしね。とにかく戦後、すっからかんの裸になっちゃって、それぞれ店を出すことが出来ることになったのも、ずっと後のことです。
芳賀 一番はじめに店を出したのは誰ですか
平野 二番目のボントンの兄です。兄は嫁の実家の小倉へ落ちのびて、そこで丸の内の中央で習い覚えたフランス料理をはじめたんです。
芳賀 まずそこで、おそば屋さんから外れたわけですね(笑)
平野 その兄が肉が好きでねえ、そば屋って淡白なものでしょう。戦中戦後みんな飢えていましたから濃厚なもの、栄養の付くもの…知らず知らず、そっちに流れてラーメンという発想になったみたい。
芳賀 だからお鮨屋と中国料理(笑)
平野 どうなのかなぁ。三番目、僕のすぐ上の兄は鮨にあこがれていました。僕自身は何のあこがれもない、仕方なしにです。店を出すきっかけをつくって来れたのは、すべてボントンの兄です。馬鹿でもラーメン屋ぐらい出来るだろうと云われましてネ。
芳賀 それが今では耕治といった立派なお店で。
平野 いや、とんでもございません。

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